博多の伝統的食文化として今も愛され続けている『おきゅうと』。
その歴史は古く、記録によれば、江戸時代に初めて箱崎で作られたそうです。
江戸時代の本草学者・儒学者である貝原益軒が編纂した『筑前国続風土記』には
「うけうとと云物、此類(いぎす)なり。糸紫なり。是亦毒あり」と記載されています。
筑前国風土記は元禄元年(1688年)から編纂を始め、宝永6年(1709年)に完成されているものです。
また、江戸期の書物『筑前国産物帳』では『うけうと』という名で紹介されており、
「海中ニ生ズ、枝多ク節々連生ス。淡紫色。久シク煮レバ化シ膠凍ト成ル。味佳ナラズ」と記載されています。
筑前国産物帳は元文3年(1738年)に筑前の黒田藩が幕府に差し上げた書物であり、これらのことから考えると1700年頃にはおきゅうとは福岡の人には知られており、遅くとも1738年には海から採って煮溶かして固めて食べていたということがわかります。つまりおきゅうとは約300年の歴史があるものなのです。
おきゅうとの語源は諸説あり、『沖独活(おきうど)』、沖でとれるウドという意味の言葉が訛った、という説が一般的ですが、筑前続風土記の中で
「此外、海藻甚多し。悉く記し難し。凡凶年に貧民海草を取て食とする事、野草より多し。」とあり、
昔、飢饉のとき非常食として多くの人を救ったことから『救人(きゅうと)』という説もあります。
他にも沖から来た人が製法を教えてくれたことから『沖人(おきうど)』という説もあり、面白いものです。
江戸時代から明治・大正と時代が変わると、箱崎では海苔の養殖とともにおきゅうとを作って売る家も増え、木箱に並べて行商をしていました。
そのため、1本からでも売りやすいように丸めており、それが今でも名残として残っています。
売り子さんがリヤカーを引いて箱崎から西新の方まで行って
『おきうとばい、おきうとばい』と言いながら売っていると旅館に泊まっていた人が、『起きるとばい』に聞こえたらしく、『朝、みんなで起こしにきてくれて、博多の人は親切やね』と言っていたという話もあります。
小学生たちも『おきゅうと』を並べた木箱を持って、
朝、ふれ売りしていました。学校に行く前に売りに行って、
おこづかいをもらい、それから学校に行っていました。
博多の商家の子どもたちには、それも大事な勉強でした。
昭和の食卓ではおきゅうとは朝ごはんの定番でした。箱崎ではおきゅうと・くじら・あさり・味噌汁、という家庭が多かったのです。関東の納豆と同じような存在です。今ではごはんのおかずとしてだけでなく、お酒のおつまみとしても愛されており、居酒屋でもお通しとして出されるお店もあります。
一昔前までは、箱崎には30軒程のおきゅうと製造店がありましたが、博多湾で原材料の良いエゴ草が獲れなくなり、石川県や新潟県など北陸産のエゴ草を使うようになりましたが、エゴ草の収穫量の減少・価格高騰により、おきゅうと製造店も減ってしまい、箱崎ではわずか3軒、福岡市内でも戦前からの老舗は4軒、戦後ののれん分けしたところを含めても約10軒となりました。
中にはエゴ草が高いから、と他の原価が安い海藻を使って安いおきゅうとを作っているところもあるようですが、林隆三商店では昔からの伝統を守り続け、本物のおきゅうとを後世にも伝えていくことを使命として、これからもおきゅうと作りに励んでいきたいと思います。